TOP > 地域情報紙 > ヨコハマ想い vol.9 はり絵画家 内田正泰氏

ヨコハマ想い


文化はこころ 文明は知
はり絵画家 内田正泰氏

profile
1922年、横須賀市生まれ。横浜市旭区在住。横浜高等工業学校建築科(現、横浜国立大学)卒。メディア、広告業界などでグラフィックデザイナーの先駆けとして活躍。1971年、はり絵による個展「日本の心」を横浜で開催。以後、はり絵画家として多くの作品を生み出してきた。NHK「ふるさとネットワーク」タイトルバック、月刊「かながわ」表紙連載、「PHP」表紙連載。今年の9月には、「徹子の部屋」にゲスト出演。

賞評にとらわれることなく、日本の心を描き続けてきた。
一枚一枚の紙を破き、紙の表情を絵に託す。
内田氏の作品は多くの人々の郷愁を刺激し、構図や色遣いは、
冒険心にあふれ、斬新ですらある。

原点

 横須賀の平坂上で生まれ、典型的な軍人の家で育ちました。
 父は釣りがとても好きで、私を自転車に乗せては山を越え、川を越え、三浦半島の至る所に連れて行ってくれましたが、豊かに流れる時間や、環境の中、人や自然と心を通わせた体験が、私の心を大いに成長させてくれたのだと思います。知識を深める学校の勉強も大切ですが、心を育てる教育は、生きていく上でとても大切。92年生きてきたおじいさんが言うのですから、本当です。

YOKOHAMA想い

 学生時代の馬車道の辺りは、まだまだ人通りも少なくて、よくブラブラ歩いていました。弁天通り(中区)辺りを外国人がフランスパンを抱えて、颯爽と歩く姿など、憧れたものです。いつか、自分も横浜に住みたいと思っていて、気がついたら住んでいましたね(笑)。観光地や商業地として、華やかな横浜もいいですが、自分が横浜らしいなぁと思うのは、どちらかといったら、何気ない四季の移り変わりだったり、普段の港の風景や、昔の洋館を真似て地元の大工さんが作った家々や、凛と立つビルだったりします。
 日本大通りの銀杏並木が真っ黄色になり、風が吹いて、ザーザーと葉っぱが斜めに流れてくる。その下で、画家が懸命に絵を描いている。そんなシーンもはり絵にしています。

日本の心 Heart

 好きとか嫌いとかではなく、小さな頃から絵が上手と言われていました。小学6年の頃、先生に代わって、クラスで絵を教えたこともありました。でも、絵を仕事にしようなんて思ったことはなかったです。親戚の偉い伯父さんから「芸術家なんてものは霊感とか、予感とか、人に説明できない能力を備えた人のことだ」と言われていましたし、両親からは「お前は、放っておいたら何をするかわからない『お茶目』だから、家から学校に行け」と言われ、横浜で建築デザインを学ぶことにしました。そこで素晴らしい恩師に出会い、芸術について多く学ぶことができたのは財産でした。
 そして時代は戦争へ。軍隊に入隊したものの、軍人の子どもにもかかわらず、ヤンチャで自由奔放。軍律に触れるなどで、軍人に向かないと言われ…。今、生きています。それは、22才の時の話です。私の友人、軍隊の仲間の多くは、硫黄島で死にました。
 私は、軍がどうだとかじゃなくて、とにかく日本が好きでした。春夏秋冬、ふるさと、山々や里の人々、小さな花。ただただ、日本が好きで、日本のためになることをしたいと思ってきました。芸術にランクをつける世界には、一切近づきませんでしたから、今も昔も自由。日本の心を伝えたいという一心で50年がたちました。

描きたい一心

 私は、スケッチは一切しないのです。日本中のいろいろなところに行き、風景を心に刻み、今まで心をキャンバスに表現してきました。
 アトリエの作品は600を超えました。壁画や別の場所にあるものなど、全部合わせたら作品数は800を超えるでしょう。
 現在は、これぞ、日本の心だと思う作品を残したくて「梅一輪 一輪ほどの暖かさ」(服部嵐雪)という俳句を作品にしております。
 冬枯れの景色の中で春を待ちわびる日本の心、小さな一つの花に、春の訪れを喜ぶ日本の心。いくらでも描きたい。一枚、一枚と紙を破き、忘れてはならぬ日本の心をこれからも伝えていきたい。
 現在は92才。年を勘定したりすることより「今、生きていて、今、描ける」ってことが重要でしょう。


ページの先頭に戻る


Copyright(C) 2012 Shonan Yomiuri Shinbunsha Inc. All Right Reserved このサイト内に記載されている画像及び文章の無断転載は禁止します。著作権は湘南よみうり新聞社に帰属します。